私達が「北方領土」と呼ぶのは、

歯舞群島(多楽島、志発島、勇留島、

秋勇留島、水晶島、貝殻島など)

色丹島、国後島、択捉島の四島です。

北方領土について

 

  

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これらの島々は、私たちの父祖が開拓してきた日本固有の領土です。四島に関しては、既に1799年当時の幕府がこれらの島に常設の番所を置き、実際にこれを統治しました。ロシアの実効支配が四島に及んだことは一度もありませんでした。この北方四島の返還を実現して平和条約を結び、日ロ両国の間に真の安定した友好関係を築きたい。これが、私たちの基本的な考えです。

占拠された「日本の領土」

 我が国固有の領土である北方領土(歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島)は、終戦直後突如ソ連に占拠されました。そして、戦後50年余を経た今日、いまだに不法占拠の下におかれたままです。

  第2次世界大戦末期の1945年(昭和20年)連合軍が沖縄を占領して、日本の戦局不利が決定的となった8月8日、ソ連は当時有効だった「日ソ中立条約」を一方的に破棄して日本に対し宣戦を布告しました。翌8月9日、ソ連は満州・樺太方面の進撃開始しました。終戦の日(8月15日)から3日後の8月18日未明、ソ連軍は砲撃とともに千島列島北端のシュムシュ島に上陸。自衛のため応戦した日本軍との激戦の末、8月23日に局地停戦協定が結ばれました。以後、ソ連軍は島づたいに南下し、ウルップ島まで来ましたが、そこから北に引き返しました。このことは、当時ソ連もはっきりと千島列島をウルップ島以北と考えていたために、択捉島以南の島々を日本の古来の領土として区別していたことを物語っています。しかし、ソ連軍の別の部隊は、択捉島以南にアメリカ軍が進駐していないと知り、8月28日、突如、択捉島に上陸を敢行しました。9月1日、色丹島。9月2日、国後島、多楽島、志発島。9月3日、勇留島、水晶島に上陸して、9月5日、北方領土の占領を終了しました。島民の一部は危険をおかして北海道に脱出しましたが、多くの島民は、苦しい抑留生活の後、日本本土に引き揚げさせられました。

歴史が語る北方領土

  日本が北方領土の返還を要求するには歴史的・国際法的に正当な根拠があります。

日本が北方の島々のことを知ったのは、今から360年以上も昔のことといわれています。これは松前藩の「新羅(しんら)の記録」によって明らかです。1644年(正保元年)幕府は「正保日本国図」を編さんするため、諸藩に「国絵図」の提出を命じましたが、このとき松前藩が幕府に提出した自藩領地の地図には「クナシリ」、「エトロフ」など39の島々が書かれています。ロシア人が初めて千島を探検したのが1711年(正徳元年)のことですから、その100年も前から日本は北方の島々とのかかわりをもっていたのです。また、1721年(享保6年)ロシアの探検隊が作成した地図には、北方の島々が、「オストロワ・アポンスキヤ」(日本の島々)と明記されています。

 1700年代の後半になると、幕府は自ら北方の島々の経営に本格的に取り組むようになり国後島、択捉島を中心に最上徳内、近藤重蔵、高田屋嘉兵衛のような勇敢な日本人が活躍しました。

 このように北方領土は、日本のみの支配下にあった我が国古来からの領土であることは一点の疑いもない事実です。

 

 

 

 

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