条約から見た北方領土

 

日露通好条約

 1855年2月7日(安政元年)伊豆・下田で「日露通好条約」が結ばれた。その第2条で、両国の国境を択捉島とウルップ島の間に定め,売るップ島より北に連なる千島列島はロシア領とすると定めました。これより歯舞群島、色丹島、国後島,択捉島の北方四島は,日本の領土であることが法的に確認されました。同条約では,樺太は両国民の混住の地と決められました。

(右の図参照)

根室市・特殊法人 北方領土問題対策協会 日露通好条約

樺太千島交換条約

 1875年(明治8年)わが国は、ロシアと樺太千島交換条約を結び、千島列島をロシアから譲り受けるかわりに、樺太全島の権利を放棄しました。この条約第2条デ譲り受ける千島列島としてシュムシュ島からウルップ島までの18島の名が列挙されています。この事実は,歯舞群島、色丹島,国後島、択捉島がロシアから譲り受けた千島列島(The Kurile Islands)ではないことを明確に物語っています。

(右の図参照)

根室市・特殊法人 北方領土問題対策協会 樺太千島交換条約

サン・フランシスコ平和条約

 サン・フランシスコ平和条約は、1951年9月8日(昭和26年)に署名され、同条約第2条C項で、日本は千島列島ならびに樺太の一部の権利、権原及び請求権を放棄しましたがわが、国が放棄した千島列島には歯舞島、色丹島、国後島、択捉島の北方四島は含まれていません。

(右の図参照)

 

根室市・特殊法人 北方領土問題対策協会 サン・フランシスコ平和条約

 

日ソ共同宣言

 ソ連が、サン・フランシスコ平和条約に署名を拒否した為、わが国はソ連との間に個別に平和条約を結ぶことになり、交渉が始まりました。しかし、ソ連は歯舞群島,色丹島については、わが国に変換することを約束しましたが、国後島、択捉島については、最後まで意見が一致しませんでした。このため、「松本・グロムイコ書簡」で領土問題を含む平和条約交渉は、正常な外交関係が再開された後に継続されるとの合意がされ、1956年10月19日(昭和31年)「日ソ共同宣言」が署名され、国交の回復が図られました。

戻る

 

動画